東海道53次 24.嶋田
佐野喜版(1840)
「狂歌東海道」-横大判56枚揃物
彫師:松田寅藏 / 摺師:小川文彥
浮世繪之美 - vol.3124
保永堂版とは視点を逆に採って、狂歌入り版は大井川の西方・遠江側から見た川越し風景を描いています。それ故、遠景に富士山が見えます。前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「嶋田」には、大井川は、「道中第一の川なり。歩渡し。駿河遠江の界。此川甲州より流れ出る。北より南へ流るヽ也」と記されています。いよいよ駿河国最後の宿場まで来たということです。なお、同図鑑には大井川を輦台を使って川越しする様子が描かれていますが、広重は狂歌入り版でほぼこれと同じ構図を採用しています。近景には2台の輦台に載った駕籠を中心とし、中景にはやはり輦台や肩車の武家など、遠景には荷を輦台に載せる一行が描かれています。槍や毛槍などが見えているので、大名行列の川越しを描いているようです。
大井川の水かさが増して川越しが危険になると、「川留」となります。そのため、駿河側の島田宿と遠江側の金谷宿には多くの旅籠があって繁盛することになります。そして、「島田女郎衆」と呼ばれる飯盛り女の出番となるのです。江戸時代、広く流行の「島田髷」は、この島田宿の遊女の髪型が始まりとも言われています。いずれにせよ、島田宿と言えば、大井川の川越しと島田女郎衆とが思い浮かぶということが大事です。狂歌は素直な内容で、大井川を急いで渡ると、宿場の名前でもある島田の女衆(島田女郎衆)の目には止まらないということですが、深読みすれば、慌てないで島田宿で遊ぶことも一考ですよと投げかけているのではないでしょうか。
なお、前掲図鑑に、「川こし銭七十七文まで馬ごしあり。七十八文より馬ごし留る。かちこし九十五文まで」と記されています。推察するに、水深が胸までなら馬が使え、それを越えると馬は使えず歩行(肩車・輦台等)になり、それも水深が脇を越えると川留になるということを渡し賃側から説明したものです。渡し賃は、川会所で川札を買って人足に払い、人足は川越しが終わると札所で現金に換えるという仕組みです。ただし、実際には直接交渉も横行していました。また人足を雇わないで自力で渡る者もいて、もちろん違法ですが、「目こぼし」されました。上流では桶を使った川越しもありました(北斎『富嶽百景』「大井川桶越の不二」参照)。
大井川 渡りいそげば 宿の名の
妹がしまだの 目にはとまらず
森泉亭廣規
歌川廣重(Utagawa Hiroshige,1797-1858)
《東海道五十三次》爲浮世繪大師歌川廣重成名作
描繪由江戶至京都的53個宿場
包含起點的江戶日本橋和終點京都内裏共56景
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