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正絹全通金糸西陣織-光琳かるた(歌留多)
琳派X西陣織之美 -vol.49

家族や友人で百人一首のかるたを遊ぶとき、私たちはいっとき平安時代の雅びな王朝文化に浸ることができる。眼には歌人像のあるカードが映り、耳には心地よい和歌の調べが響く。自分でもそれを口ずさむ。書道に親しんでいる人であれば、流麗な平仮名の手本で和歌を筆写しながら雅びな日本を手から感じることができる。百人一首かるたが他の歌合せかるたを圧倒して人々の人気を得たのは、上の句を読んで下の句を取るという、人の五感を最大限に活用する遊技法が開発されたからである。

百人一首は平安時代の王朝文化を写して鎌倉時代に成立したが、そのかるたは江戸時代の始め、大名家の家中での女性の遊戯として成立した。百人一首かるたは競い合う遊びの文化であったが、遊戯の間にも和歌を鑑賞し、歌人に思いを馳せる余裕があった。親しい女性たちが競い合うのは穏やかな時間と空間であり、遊戯に参加している幼子や初心者へのハンディとして、その子の得意札には大人は手を出さない心配りの空気もあった。

江戸時代のかるた遊技には、封建の世で身分格差に厳しい中でも人としての公平性、平等性があった。遊戯には厳密なルールがあって、誰もがそれに従ってプレイして結果を受け入れる。正月に家内でかるたに興じるときには、子が親に勝ち、嫁が姑に勝ち、使用人が主人に勝つことがある。それは日常の厳しい身分秩序からいっとき解放される、自由で平等な人同士が遠慮なく競い合う公平な世界である。歴史学者はこれをアジールの空間という。

百人一首の版本の改革者が菱川師宣であったとすれば、「百人一首かるた」の改革者は尾形光琳であった。「百人一首かるた」では、元禄年間(1688~1704)になると『像讃抄』の影響が増して古型から標準型へと転換したが、光琳はそれに不満を持ち、かるたを美術作品として描いた。

光琳は元禄年間(1688~1704)の後期から宝永年間(1704~11)にかけてこの課題に取り組み、慎重に下絵を描いたのちに今日名高い「光琳かるた」を完成させた。

このかるたは、元々屏風に糸留めして鑑賞するように制作されたもので、上の句札では歌人像が大きく、生き生きと描かれていた。光琳はここでそれまでのかるたでの歌人図像が平面的なものになってイラスト化した原因の一つであった『尊圓百人一首』の畳枠の表現を避けて、『素庵百人一首』に戻して無畳の表現を採り、図像の立体感を回復させることに成功した。また、下の句札では、菱川師宣の歌意図にヒントを得たのか、光琳ならではの歌意絵を地模様のように加えた。このかるたについては、それがあまりに華麗であるのでもっぱら美術品として鑑賞され、昭和後期(1945~89)には繰り返し復刻品が発行されてきた。その美しさのために見逃されがちであるが、このかるたの制作における光琳の改革に向けた強い意思も汲み取ることが望ましい。光琳は、こういう意味で「百人一首かるた」の改革者であったが、芸術作品としての完成に集中していたので、その作品も一点限りであり、広く知られることはなく、一般社会に流通するかるたの図像の改革には結びつくことがなく、そちらでは菱川師宣流の図像、表記のものが伝播していった[1]。

こうして、およそ元禄年間(1688~1704)に「百人一首かるた」は大きく変化して今日まで続く標準型のデザインのものになったのであるが、延宝年間(1673~81)の菱川師宣による改革は師宣自身の発意によるものなのか、それとも何か手本があったのかは、昭和後期の私の研究では分からなかった。改革の真のリーダーは誰だったのか。平成期に残された一つの研究課題であった。ここで、私の研究の成果を説明しよう。

[正絹](しょうけん) 純絲
正絹為日文中"真絲"的意思

[六通柄](ろくつうがら)
正面花紋佔整體的60%

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