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村田珠光「心の文」
茶之湯逸話 -vol.19

茶道最忌諱之事乃懷有剛愎自用的傲慢心態
更不該妒忌茶藝高明者及藐視初學者
應該盡可能親近茶藝高超者
這樣就能發覺自己的缺失之處
即便得到隻字片語的指教亦有助益
對待初學者則要盡心培養
茶道之大事為打破和漢之界線
使兩者互相融合
事關重要需用心思量

近來有人以冷枯作為標榜
有些初學者不明究裡
盲目收集備前燒與信樂燒作為道具使用
這並不能夠真正受人認可
此乃偏離正道之舉
真是不可理喻荒唐至極

對茶道而言任何事物皆是循序漸進而來
持有好的道具應深刻體會玩味
熟知其用途與用法
一步一步在境界上不斷深入
自然可以達到冷枯的境地
而手上沒有持有好的道具
就不要拘泥於道具
重要的是人而非道具

無論茶道技藝何等高明之人
亦須時時反省自我
考量自己的不足與不成熟之處
保持謙遜之心非常重要
而自信心也是不可或缺
應避免傲慢自高自大固執己見
但不要失去主見和創意
這就是被稱為"道"的原因
所以古人有云「願作心師,不師於心」

涅槃經二十八曰:
「願作心師,不師於心。」

村田珠光(1423-1502)
日本茶道開山之祖
生於奈良,幼年於凈土宗寺院出家
後拜師於一休宗純門下參禪
珠光將禪宗與茶道進行融合
為茶道形成深邃的思想內涵
《心之文》為珠光給大弟子古市播磨澄胤的書信
成為珠光為茶道留下的重要資產
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「心の文」全文
古市播磨法師珠光
此道、第一わろき事ハ、心のかまんかしやう也、
こふ者をはそねミ、初心の者をハ見くたす事、
一段無勿躰事共也、
こふしやにハちかつきて一言をもなけき、
又初心の物をは
いかにもそたつへき事也、此道の一大事ハ、
和漢之さかいをまきらかす事、
肝要肝要、ようしんあるへき事也、又、当時
ひゑかるゝと申して、初心の人躰か、
ひせん物しからき物なと
をもちて、人もゆるさぬたけくらむ事、言語道断也、
かるゝと云事ハよき道具をもち、
其あちわひをよくしりて、
心の下地によりてたけくらミて、後まて、
ひへやせてこそ面白くあるへき也、又さハあれ共、
一向かなハぬ人躰ハ、道具にハからかふへからす候也、
いか様のてとり風情にても、
なけく所肝要にて候、
たゝかまんかしやうかわるき事にて候、
又ハ、かまんなくてもならぬ道也、銘道ニいわく、
  心の師とハなれ、心を師とせされ、と古人もいわれし也

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「心の文」の全文である。冒頭には「古市播磨法師 珠光」と記されている。この文は「心の師の文」あるいは「心の一紙」とも呼ばれ、わび茶の祖、珠光の名文として、茶の湯の歴史のなかではことに重んじられてきた。江戸時代の初期、小堀遠州が奈良の松屋久重の求めにより、表具をなおし、大徳寺の江雪和尚に奥書をしてもらい、自ら箱書をしたためて、久重に与えたという。その後、江戸時代の中期には松屋から大坂の豪商、鴻池道憶に譲られ、近代になって数寄者の平瀬露香が手にしたが、現在は行方がわからないとされる。

此道、第一わろき事ハ、心のかまんかしやう也、

これは、わび茶の祖といわれる村田珠光が弟子の古市播磨(ふるいちはりま)にあてた文章の冒頭の一節です。この一節からはじまるので、この文章は「心の文」と呼ばれます。
此(この)道とは「茶の湯の道」。「茶道」という言葉はまだない時代ですが、この文章の中で珠光は、はじめて茶の湯を人間の生き方をふくむ「道」としてとらえました。珠光がわび茶の祖とされる所以(ゆえん)です。

此道の一大事ハ、
和漢之さかいをまきらかす事、肝要肝要、

珠光の「心の文」の一節です。
此(この)道、すなわち茶の湯の道で大切なことは、「和」と「漢」の境を融和(ゆうわ)させることであると言っています。和は日本的なもの、漢は中国的なものですが、具体的には「和物」と「唐物」の茶の湯の道具をさしているのでしょう。つまり、和物と唐物が渾然(こんぜん)一体となった境地をつくることが大切であるというのです。

初心の人躰か、ひせん物しからき物なと
をもちて、人もゆるさぬたけくらむ事、言語道断也、

しかし、それは誰にでも許される境地ではありません。
初心者が和物の備前や信楽の焼き物を茶の湯に用いて、それがあたかも「わび」であるかのように思うのは大きな間違いで、唐物などのよい道具を十分に味わい尽くしてから得られる境地であるというのです。

心の下地によりてたけくらミて、後まて、
ひへやせてこそ面白くあるへき也、

見せかけではなく、心の底から高い品格をそなえ、その後にすべてを否定して、冷えやせた、枯淡(こたん)の境地に至ってこそ、茶の湯はおもしろい。

珠光は、「唐物」と「和物」を融和させる茶の湯を主張しました。しかし、それは唐物のよさを十分に味わい尽くしてから得られる、わびの境地であると言います。
しかも、その境地に到達するためには、見せかけではなく「心」がともなっていなければならないというのです。これは、心の修養ともいえることで、珠光が茶の湯に心のあり方を強く求めていたことがわかります。

心の師とハなれ、心を師とせされ、

「心の文」の冒頭で、珠光は、茶の湯の修行において最も障害となるのは、心の我慢(われこそはと慢心すること)、我執(自分に執着して我をはること)であると述べていました。しかし、最後になって「かまんなくてもならぬ道也」、つまり茶の湯は「我こそはと思う気持がなくては成就しない道である」と、反対のことを言っています。
我慢や我執を捨てて悟りの境地に到達することは大きな理想であり目標でしょう。しかし、人間である以上、我欲を捨て去って悟りの境地に到達するのは容易なことではありません。我欲はよくないかもしれませんが、それは自らを向上させる心でもあります。他の人よりも茶の湯が上手になりたい、という競争心があればこそ上達もするでしょう。また、自分が置かれている現状に甘んじることなく、自分を生かしたいと思う気持ちが人の修行を助けることもあるでしょう。我慢や我執は修行の動機としては大切です。

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茶之湯逸話

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