東海道53次 49.阪ノ下-筆捨山ノ図
佐野喜版(1840)
「狂歌東海道」-横大判56枚揃物
彫師:遠藤光局 / 摺師:伊藤智郎
浮世繪之美 - vol.3149
「筆捨山之圖」という書き入れがあり、関から坂下に向かう途中にある筆捨山が画題であることが分かります。保永堂版は、『東海道名所圖會 巻の二』の図版(前掲『新訂東海道名所図会上』p298~p299)を写した感がありますが、狂歌入り版は、墨の点を打ち重ねる「米点(べいてん)」(米法山水)を使いながら、より簡略的に実景を表現しているということができます。同名所図会(p293)に、鈴鹿川は「幾瀬もあるゆえ八十瀬の名あり」と、また同名所図会(p295)に、筆捨山は「麓に八十瀬川を帯びて、山頭まで所々に巌あり。その間々(あいあい)みな古松にして、枝葉屈曲にして作り松のごとし。本名は岩根山という」と記されています。したがって画中に見える川は八十瀬川です。関から坂下に進むという視点では、関の西方に「大黒石・蛭子石・観音岩・女夫岩」や「転石」などの奇岩が続き、さらにその西側に筆捨山が見えることになります。
室町時代後期、狩野派に新しい作風を完成した狩野元信が東国に下る途中、天候の激しい変化に山を描く筆を捨てたという故事から、筆捨山という名が付いたと言われています(前掲名所図会p295参照)。筆捨山の方を指差す俳諧(狂歌)師は、こんな故事を話しているのかもしれません。遠景に描かれているのが伊勢国と近江国との境界をなす鈴鹿山でしょうか。
また坂下は絵だけでなく、鈴鹿川、鈴鹿山、鈴鹿の関などを題材として、多くの歌が詠まれている歌枕の地でもあります。たとえば、広重『東海道風景図会』「坂の下」には、藤原俊成(新勅撰)の和歌「降そめていく日(か)に成りぬすゝか川 八十瀬もしらぬ五月雨の頃」が掲載されています。注目点は、「降る(ふる)」と「鈴(すず)」という縁語関係です。狂歌入り版の狂歌にも、「すゞか山」と「ふる双六」という言葉があって、鈴を振るという縁語を用い、古代律令時代の旅の合図である駅鈴を想起させています。そして、最後の「駅路」に繋がるという訳です。つまり、鈴鹿山に至り、旅の駅鈴が促し、上がりを目指し賽子を振る双六遊びのように、旅人は駅路を先へ先へと急ぐという程の意味になります。実際、鈴鹿を越えれば近江国に入り、もう少しで、上がりの京都に至ります。
すゞか山 ふる双六は たび人の
さきへと いそぐ驛路
森風亭波都賀
歌川廣重(Utagawa Hiroshige,1797-1858)
《東海道五十三次》爲浮世繪大師歌川廣重成名作
描繪由江戶至京都的53個宿場
包含起點的江戶日本橋和終點京都内裏共56景
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